Twitterをやりだしてからは、ちょくちょく考えていることを断片的に書くから何かブログの更新は少なくなったな…。もともと多い方じゃないけども。
色々とくよくよしていたスタンスの方も、自分の中で一応の解決をみた。
どこを受けるかはまだ確定ではないけども、来年はもう一度大学院を受けることにした。
平たく言えば院浪して、半年か一年かはバイトをしながらってことになると思う。
来年は必ず受かるように、万全の準備を今からしていきます。
そして、来年のフォリオにもいいものを入れなきゃいけないし、
そんなこととも関係なく4年間の集大成としてのソツセイを開始。
まずは1回目のエスキスまでに骨格をまとめておきたい。
場所は今のところ関外全域で考え中。
山本先生の仰る地域社会圏のような地域的なまとまりと、活動や趣味といった生活スタイルのまとまりをダブルのレイヤーとして、結構広い範囲を敷地に設定して考えていきたい。
まずは徹底的な調査。
敷地の物理的な調査もだけど、この地域で行われている様々な活動(街づくりやそれに伴うアート活動など)を調査していく。
ソツセイと並んでこの残り半年で形にしていきたいことのひとつ、フリーペーパー。
遅れに遅れている作業だけども、何とか10月頭の入稿目指して作業中。
アーキTVには残念ながら団体としての参加はできなさそうなので、第1号を持参のうえ乗り込んで、議論に参加してきたい。ということで、10月10日までを完成目標にやってます。
しかしながら改めて、文章は書けば書くほど難しい。しかし、これも繰り返しの訓練しかないのだろう。
このところ小泉や村上なんかと今後Y-PACをどうしていくかって感じの話もよくする。
とりあえず今年で主要メンバーは大学卒業という節目を(おそらく無事いけば)迎えるわけだが、来年以降どうして行くのか。
いちどメンバーとじっくり話さないといけないだろう。
そういえば、五十嵐太郎さんのBLOGで超チラッとだけどY-PACについて言及していただいたところがあった。 http://www.cybermetric.org/50/
誰かに届いているのか分からないままやっていた活動だけども、少しでも誰かに届いていたのならやっていた意味はあると、久々に実感できた。
その他、卒本とか赤レンガとか詳細が謎だけど色々と手と首を突っ込んで行きたいこともあるので、残り半年も忙しくやって行きたいです。
2009年9月26日土曜日
2009年9月12日土曜日
ならば自分はどうするか?という問題
昨日はワタリウムのトークイベントの手伝いの後、中山さん・藤原さんたちと軽く打ち上げ。
その後、渋谷に移動して始発まで少しだけカラオケ。
ワタリウムで久々に大学のやつらの顔見たり、久々に小泉と話したり、藤原さんや中山さんの話を聞いたり。
やっと自分が大学院に落ちた実感とか、そろそろ卒制が始まるとか、大学も終わっちゃうとか、正直な話来年どうしようとか、そういう事に頭が回りだす。
突如として(もちろん可能性が十分にあったわけだけど)大学院という選択肢が今年は費え、来年は社会に放り出されることになると、卒制とかこの残り半年でやることの意味合いはかわってくる。
ある意味で自分のスタンスを、来年は学生と保留してきたわけだが、ここに来てスタンスをどう取るかは緊急の問題になる。
ホント、スタンスが定まってなければ、方法論もプロセスも話にならない。
とはいえ、そう簡単に自分の立ちたいと思う場所を、向きたいと思う方向を、すぐにはやっぱり決められない。
具体的にどうして行くか、つまり来年何をするのかはまだ断定して言えない。
けれどもこれはもう腹くくって、大学残り半年を濃密にがむしゃらに、でも冷静にやっていく、そのいい転機だと思う。
来年のあれこれと、それに向けた今年のあれこれを考えるのは不安ではありながらも、ワクワクするところ。
その後、渋谷に移動して始発まで少しだけカラオケ。
ワタリウムで久々に大学のやつらの顔見たり、久々に小泉と話したり、藤原さんや中山さんの話を聞いたり。
やっと自分が大学院に落ちた実感とか、そろそろ卒制が始まるとか、大学も終わっちゃうとか、正直な話来年どうしようとか、そういう事に頭が回りだす。
突如として(もちろん可能性が十分にあったわけだけど)大学院という選択肢が今年は費え、来年は社会に放り出されることになると、卒制とかこの残り半年でやることの意味合いはかわってくる。
ある意味で自分のスタンスを、来年は学生と保留してきたわけだが、ここに来てスタンスをどう取るかは緊急の問題になる。
ホント、スタンスが定まってなければ、方法論もプロセスも話にならない。
とはいえ、そう簡単に自分の立ちたいと思う場所を、向きたいと思う方向を、すぐにはやっぱり決められない。
具体的にどうして行くか、つまり来年何をするのかはまだ断定して言えない。
けれどもこれはもう腹くくって、大学残り半年を濃密にがむしゃらに、でも冷静にやっていく、そのいい転機だと思う。
来年のあれこれと、それに向けた今年のあれこれを考えるのは不安ではありながらも、ワクワクするところ。
2009年9月7日月曜日
Re:クリエイティブシティ?
妻有のトリエンナーレに行ってきてちょうど似たようなこと考えてたからコメント。
小泉の元記事はこちら
>非クリエイティブクラスはどうしたらいいのか
まずクリエイティブクラスの定義を俺はよく理解していないというのはあるけども、非クリエイティブ層に何のメリットがあるのかは確かに分かりづらい。
妻有のように過疎化の進む地方において、アートがその場所の固有性とか潜在的な価値を呼び起こすきっかけになるというのはわからないでもない。
その結果、土地の人が自分の集落に誇りを持つとか、その地域にお金が落ちていく仕組みができていくとか、そういうことは非常に分かり易いメリットだと思う。
ただ、横浜みたいにそこそこに成り立っている都市部においてどれほどアートとかクリエイティブな行為がメリットを持つのかは、一般的には理解しづらい。だから浸透しない。
このへんまで、直接的なコメント。
以下は色々まとまってないけど考えたこと。
制度とか仕組みとか戦略とかあらゆる決定は常にその対象の外部を作り出す。
越後妻有のトリエンナーレはもともと合併予定だった十日町・川西・松代・松之山・津南・中里地域を対象にしている。つまり、地域を限定している。それはつまりイコールで対象に含まれない外部も生み出す。
また、その中でトリエンナーレに参加するかしないかは集落による。
地域に外部の人間を入れることは、先に書いたようなメリットもあるが、もちろん沢山のデメリットもある。
つまり、最終的にはやはり、地域の自主的な決断が必要だ。
もちろん、そこに積極的に情熱と信念を持ってアプローチしていく外部の存在も必要だと思う。
それは、マスタープランナーなのかもしれないけども、必ずしもそうでなくったっていいいとは思う。
まちづくり(地区計画とか)が結局住民たち自身の手によって作られて、維持されていくのと同じでクリエイティブシティという考え自体が強制されるべきではない。
そう考えると50年かけて民主的にやったっていいと思う。
妻有と違って横浜に緊急性はないでしょ。(←これは認識が甘いのかもしれないけど)
少なくとも住んでいる自分自身に危機感はそんなにない。
それが、東京依存の横浜的考えに毒されているからなのか。
クリエイティブクラスは自分のクリエイトのための空間や環境を結局自らの手で切り開くしかない。
それは、結局都市レベルとかじゃなくたっていい。自分のご近所だっていいのだと思う。
だから、ちょっと自分の中ではクリエイティブシティという考え自体がうそ臭く聞こえてしまう。
結局クリエイティブクラスが自分たちの創作に金を出せと言っているように聞こえてしまう。
でもまあ、自分のクリエイトしやすい空間(都市)を自分たちで必死に作ろうとしているのだから、まあいいのかもしれない。
…結局どっちつかずな見解だけど。
都市戦略は今後意味を持つのだろうか?
地域とか町レベルまで話を落とさないと結局意味を持たないのじゃないだろうか?
アーキテクチャは国の法律レベルで整備して、その利用は町や地域で自主決定する。
そして、いざ実行に移すときにはプロフェッショナルなアドバイザーがそれに助言する。
それは結局政治レベルで言えば道州制の導入だったりってことになるのかもしれない。
でも、自分自身にいえるのは、そのアーキテクチャを作っていく側なのか、利用する側なのかってこと。
つまりは、自分のスタンスを今後どう定めるか。
院試に落ちたこの時期に、改めて考えてみたけど。
具体的にどこに立ちたいというということはまだ良く分からない。
けど、やっぱり攻めて行きたいという考えは変わらない。
クリエイティブシティに未来があるかは分からないけども、クリエイティビティの持つ力は信じているから。
小泉の元記事はこちら
>非クリエイティブクラスはどうしたらいいのか
まずクリエイティブクラスの定義を俺はよく理解していないというのはあるけども、非クリエイティブ層に何のメリットがあるのかは確かに分かりづらい。
妻有のように過疎化の進む地方において、アートがその場所の固有性とか潜在的な価値を呼び起こすきっかけになるというのはわからないでもない。
その結果、土地の人が自分の集落に誇りを持つとか、その地域にお金が落ちていく仕組みができていくとか、そういうことは非常に分かり易いメリットだと思う。
ただ、横浜みたいにそこそこに成り立っている都市部においてどれほどアートとかクリエイティブな行為がメリットを持つのかは、一般的には理解しづらい。だから浸透しない。
このへんまで、直接的なコメント。
以下は色々まとまってないけど考えたこと。
制度とか仕組みとか戦略とかあらゆる決定は常にその対象の外部を作り出す。
越後妻有のトリエンナーレはもともと合併予定だった十日町・川西・松代・松之山・津南・中里地域を対象にしている。つまり、地域を限定している。それはつまりイコールで対象に含まれない外部も生み出す。
また、その中でトリエンナーレに参加するかしないかは集落による。
地域に外部の人間を入れることは、先に書いたようなメリットもあるが、もちろん沢山のデメリットもある。
つまり、最終的にはやはり、地域の自主的な決断が必要だ。
もちろん、そこに積極的に情熱と信念を持ってアプローチしていく外部の存在も必要だと思う。
それは、マスタープランナーなのかもしれないけども、必ずしもそうでなくったっていいいとは思う。
まちづくり(地区計画とか)が結局住民たち自身の手によって作られて、維持されていくのと同じでクリエイティブシティという考え自体が強制されるべきではない。
そう考えると50年かけて民主的にやったっていいと思う。
妻有と違って横浜に緊急性はないでしょ。(←これは認識が甘いのかもしれないけど)
少なくとも住んでいる自分自身に危機感はそんなにない。
それが、東京依存の横浜的考えに毒されているからなのか。
クリエイティブクラスは自分のクリエイトのための空間や環境を結局自らの手で切り開くしかない。
それは、結局都市レベルとかじゃなくたっていい。自分のご近所だっていいのだと思う。
だから、ちょっと自分の中ではクリエイティブシティという考え自体がうそ臭く聞こえてしまう。
結局クリエイティブクラスが自分たちの創作に金を出せと言っているように聞こえてしまう。
でもまあ、自分のクリエイトしやすい空間(都市)を自分たちで必死に作ろうとしているのだから、まあいいのかもしれない。
…結局どっちつかずな見解だけど。
都市戦略は今後意味を持つのだろうか?
地域とか町レベルまで話を落とさないと結局意味を持たないのじゃないだろうか?
アーキテクチャは国の法律レベルで整備して、その利用は町や地域で自主決定する。
そして、いざ実行に移すときにはプロフェッショナルなアドバイザーがそれに助言する。
それは結局政治レベルで言えば道州制の導入だったりってことになるのかもしれない。
でも、自分自身にいえるのは、そのアーキテクチャを作っていく側なのか、利用する側なのかってこと。
つまりは、自分のスタンスを今後どう定めるか。
院試に落ちたこの時期に、改めて考えてみたけど。
具体的にどこに立ちたいというということはまだ良く分からない。
けど、やっぱり攻めて行きたいという考えは変わらない。
クリエイティブシティに未来があるかは分からないけども、クリエイティビティの持つ力は信じているから。
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