妻有のトリエンナーレに行ってきてちょうど似たようなこと考えてたからコメント。
小泉の元記事はこちら
>非クリエイティブクラスはどうしたらいいのか
まずクリエイティブクラスの定義を俺はよく理解していないというのはあるけども、非クリエイティブ層に何のメリットがあるのかは確かに分かりづらい。
妻有のように過疎化の進む地方において、アートがその場所の固有性とか潜在的な価値を呼び起こすきっかけになるというのはわからないでもない。
その結果、土地の人が自分の集落に誇りを持つとか、その地域にお金が落ちていく仕組みができていくとか、そういうことは非常に分かり易いメリットだと思う。
ただ、横浜みたいにそこそこに成り立っている都市部においてどれほどアートとかクリエイティブな行為がメリットを持つのかは、一般的には理解しづらい。だから浸透しない。
このへんまで、直接的なコメント。
以下は色々まとまってないけど考えたこと。
制度とか仕組みとか戦略とかあらゆる決定は常にその対象の外部を作り出す。
越後妻有のトリエンナーレはもともと合併予定だった十日町・川西・松代・松之山・津南・中里地域を対象にしている。つまり、地域を限定している。それはつまりイコールで対象に含まれない外部も生み出す。
また、その中でトリエンナーレに参加するかしないかは集落による。
地域に外部の人間を入れることは、先に書いたようなメリットもあるが、もちろん沢山のデメリットもある。
つまり、最終的にはやはり、地域の自主的な決断が必要だ。
もちろん、そこに積極的に情熱と信念を持ってアプローチしていく外部の存在も必要だと思う。
それは、マスタープランナーなのかもしれないけども、必ずしもそうでなくったっていいいとは思う。
まちづくり(地区計画とか)が結局住民たち自身の手によって作られて、維持されていくのと同じでクリエイティブシティという考え自体が強制されるべきではない。
そう考えると50年かけて民主的にやったっていいと思う。
妻有と違って横浜に緊急性はないでしょ。(←これは認識が甘いのかもしれないけど)
少なくとも住んでいる自分自身に危機感はそんなにない。
それが、東京依存の横浜的考えに毒されているからなのか。
クリエイティブクラスは自分のクリエイトのための空間や環境を結局自らの手で切り開くしかない。
それは、結局都市レベルとかじゃなくたっていい。自分のご近所だっていいのだと思う。
だから、ちょっと自分の中ではクリエイティブシティという考え自体がうそ臭く聞こえてしまう。
結局クリエイティブクラスが自分たちの創作に金を出せと言っているように聞こえてしまう。
でもまあ、自分のクリエイトしやすい空間(都市)を自分たちで必死に作ろうとしているのだから、まあいいのかもしれない。
…結局どっちつかずな見解だけど。
都市戦略は今後意味を持つのだろうか?
地域とか町レベルまで話を落とさないと結局意味を持たないのじゃないだろうか?
アーキテクチャは国の法律レベルで整備して、その利用は町や地域で自主決定する。
そして、いざ実行に移すときにはプロフェッショナルなアドバイザーがそれに助言する。
それは結局政治レベルで言えば道州制の導入だったりってことになるのかもしれない。
でも、自分自身にいえるのは、そのアーキテクチャを作っていく側なのか、利用する側なのかってこと。
つまりは、自分のスタンスを今後どう定めるか。
院試に落ちたこの時期に、改めて考えてみたけど。
具体的にどこに立ちたいというということはまだ良く分からない。
けど、やっぱり攻めて行きたいという考えは変わらない。
クリエイティブシティに未来があるかは分からないけども、クリエイティビティの持つ力は信じているから。
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