2009年8月29日土曜日

チクセキ

今日は5月の末に亡くなってしまった従姉の家に行ってきた。
初盆は院試前で行けなかったので、お線香を上げて、持ち物の整理を手伝ってきた。

彼女はすごく趣味が近くて、おばさんも価値の分かる、趣味の分かる人が持っていたほうが良いと言ってくれたので、色々と頂くことになった。
整理しながら、改めて彼女のことを尊敬した。
ものすごくたくさんの本を読んでいた。本だけじゃないけど、本の多さだけでもそのすごさは分かった。
ヨーロッパに旅行に行ったとき、国際郵便でダンボールいっぱいの本を送ってきたことをおばさんは笑いながら話していた。
多くの物事と経験と練習の蓄積が、彼女の人柄と彼女の描く絵にあふれていたのだと思う。
自分はまだまだだなーと思う。
まだまだ知らないことも、見たこともないことも、聞いたことのないことも、感じたことのないこともこの世界には満ちているのだと思う。

2009年8月26日水曜日

期待

ネットダイブをしていたらアーキTV2009の企画書PDFが落ちていたので拾ってみた。
以下抜粋。

学生ワークショップ2009Archi-TV 2009 「建築道-1/1のリアル-」建築の道を歩き始めた学生にとって、学校の建築教育では近いようで遠い「1/1」。そこでArchi-TV 2009では、さまざまな分野から建築をみるのではなく、建築そのものに目を向け「1/1」を実際に作り上げるまでの道のりを通して、建築のリアルな部分に迫ります。最終的に都市の中に「1/1」の空間をつくることで、建築とはなにか、建築になにができるのかを模索し、社会に対して学生によるリアルを表現します。今回、「1/1」の空間を追求する機会として野点空間をテーマに学生コンペを開催します。これにあたり、事前ワークショップ、24時間耐久ワークショップ、野点コラボプロジェクトの3つのイベントを企画しました。野点コラボプロジェクトでは、コンペ受賞作品を東京都内で行われる有数の茶会にて実施できるよう検討しています。24時間耐久ワークショップでは、1次審査を通過したコンペ案を「1/1」でライブ制作します。完成後ゲスト審査員による最終審査会を行い、各受賞作品を決定します。また、このコンペと並行して、ゲストを交え、講演会、ディベート、当日の来場者も含めたワークショップを行い、「1/1」について参加者誰もがフラットに議論する場としていきます。こうしてArchi-TV2009は「1/1のリアル」を目撃します。

だそうです。
24時間WSで施工って言うのは結構きつそう。未完成作品が並ぶって状態にならないか心配。
でも、ただ単に1/1作って、やったー!的な内容ではなさそうで、期待。
ぜひ当日行って参加してきたいと思います。
ちなみにHPはこちら

2009年8月23日日曜日

スケール1/1について思うこと・2

小泉へのレスを書いていたら長くなっちゃったので、新規投稿。

えてして学生が1/1って言っているものは、仮設とか、パビリオンとかなわけで、それそのものは目的ではなくて手段なんだよね。それを通して何をつかんだり何を学んだりしたいのか。
実施の建築って言うのは、それが建つこと自体が目的でありうるとは思うけど、それだって建てる事でそこに何かを起こしたいとか、どう使うかとかってことを考えると、建築ってやっぱり目的じゃなくて手段なのだと思う。それは、作家性とかそういう問題にもかかわってくると思う。建築を目的とするならば、その作品に自分の名前が署名されることに意味があったりするんだろうけど、手段であるならば、目的が果たされるのならば、それは誰の作品でもいいわけだし。
1/1を作ることが、作家性とか物を作る喜びとかを感じることにしかつながらないとしたら、あまり面白い話じゃないのかなって。それが今喪失してて、それを啓蒙するっていうぐらいに深く考えてのことならいいけど。そうじゃないとしたら、やっぱりその先の議論に接続していかないと、と思う。あるいは、1/1を作ることについて、隈さんが言っていたように、ローカリティーの発露の可能性みたいなものをみてるとしたら、それはそれで面白いかもしれないけど。でも、そしたら東京だけでやるとしたら、違うよなって。
企画内容を知っているわけじゃないから、なんともいえないし、別にアーキTVについての話じゃないんだけど、もうちょっと学生は意識して建築に取り組まないという気がする。それは自分も含めて。今の30代とかもっとそれ以上の年の建築家や、それ以外の人が提出している課題とか問題に対して、自分たち少なくとも自分なりの見解や同意や違いの表明をしないといけないと思う。それを、単純に世代の違いとか考えが古いとか、自分はまだ勉強不足だとか、あの人が言っていることは案外普通だとか言ってごまかしてはいけない。
それは、山本さんの言う地域社会圏の話であったり、藤村さんの言う超線形設計プロセスであったり、あるいは建築とは違うかもしれない問題に対しても。自分はそれに対して同意なのかそうでないのか、あるいは保留の態度をとるのか。あるいは、新しい問題(それが本当に新しいことはなかなかないと思うけど)を提案しているのか。1/1という問題の立て方は、どの辺の問いかけについて答えようとしているのか。その辺ははっきり見えてくるといいよね。
アーキTVはそういうことがすごく伝わりやすい形で発信できる場だと思うから、問題の立て方はすごく重要な気がする。俺で言えば、赤レンガとかもそれをどう問題として立てるかはあるよね。Y-PACやフリペもまたしかり。

スケール1/1について思うこと

院試が終わってから、ちょっとここのところ読んでいなかった建築周辺以外の本を摂取。
さすがに、雑誌2冊、小説5冊、漫画14冊の新規購入はやりすぎた。
ライトノベルを2冊並行読みしつつ、1Q84を読み始める。
積読にしてる本もだいぶあるので、夏中に読み進めておきたい。

そういえば、アーキTV2009が本格始動しているらしい。
ツイッターをやってないからちゃんとフォローはしていないけど、どうやら今年は1/1がキーワードらしい。

今1/1というのも、なんだかちょっとぴんとこない感じ。
仮設で、手伝いではあるけども、1/1を実感した身としては、1/1はそんなに特別に意味のあるスケールではないような気がする。それは、自分が仮設で施工メインに関わっていなかったからなのか、1度やったから思うことなのか、自分の案ではなかったからなのかはちょっとわからないけど。
1/1を学生が作ると、確かにディテールとか、施工性とか、お金とか、工期とか、ほんとに学ぶことはたくさんあるのは言うまでもない。でも、それ以上に仮設の後は、ある種の達成感とかお祭り感のようなものがクローズアップされがち。と、さめた感じになるのは、あるいは仮設の打ち上げに私事で参加できなかった自分だから斜に構えているのかもしれないけども。

1/1を作ることにどういう意味を持たせたいと考えているのか。そして、どういう議論や問題やその後の話に接続させていくのかは、期待するところだし、ちょっと不安なところだ。
ただの、やったー完成したーおつかれー的なお祭りに終わってしまうのではない何かがなければならないのだと思う。
1/1を考えるってことは、同時にスケール全体のことを考える場でもあるのだと思う。1/2ではなく1/1。1/10でなく1/1。1/100でなく1/1でなければならない理由をだ。

4年の前期で自分として1番印象に残っているのは、様々なスケールを扱ったこと。1/1も体験したし、10,000㎡では、今まであまり意識してこなかったスタディのスケールをやっと気にしながらやった。それにキャンパス模型(1/400)もあるいは含んでもいいかもしれない。

スケールは伝達の問題にも関わってくる。1/1は自分の言いたいことを本当に1:1に100%伝達するかというと、そんなことはない。どっちかって言うと、1/1の空間には解釈の余地がありすぎる。
それに比べて、1/100の模型の持つ情報量は、量的に1/100なのかどうかは分からないけど、もしそう仮定するなら、伝えたいことを1/100に絞っているわけだから、解釈の幅は1/100で、より伝わるともいえる。建築は1/1の空間で伝達を行うのか、あるいは模型なのか、あるいは図面なのか、あるいは文章・言葉なのか、あるいは他の何かなのか。その辺のことに踏み込んだWSだと面白いのだろうな。

そして、アーキTVはいいとしても、赤レンガはいつ始動するのだろう?東大の院試後かな?

2009年8月13日木曜日

院試とは関係のないコト

昨日でフォリオのサインを両先生に頂き終わり、フォリオから即日設計・学科にシフト。
が、昨日帰宅後から腹の調子が最悪。
結局今日の即日練習は行かずに、家で学科とフォリオの直し。

作業の合間に、にわかに活気を見せているY-GSA山本スタジオのBLOGとかRAJのBLOGとか読んでた。
山本さんの言っていることと、藤村さんが言っていることは、結構興味を持ってずっとフォローしていることだけども、なんかいまいち自分の中でどうその2人の言っていることが上手くまとまってこない。
山本さんはBLOGで上野千鶴子さんとの話をとりあげていた。
ちなみに上野さんは思想地図VOL.2のジェネレーションの号に寄稿している。
藤村さんはご存知の通り、思想地図VOL.3のアーキテクチャに寄稿。
多分、思想地図の特集にどちらの話も顔を出している以上、何かこの両者の問題に接点があるような気がするのだけども、自分の中でそれがはっきりとしない。

山本さんの地域社会圏っていう話は自分の課題のテーマとしてもあって、卒計も山本さんが担当であるし、そのことをやっていこうと思っている。上野千鶴子の言う世代の問題(あるいは介護や家族の問題)を地域社会圏という考え方は解決していけると思うし、それに自分もチャレンジしたい。

そのことと、藤村さんのやっているような話がいまいちリンクしてこない。藤村さんがしきりに言っていること(超線形設計プロセス)は方法論の話でしかないからなのか。藤村さんの議論には、その方法論を用いてどういうものが作りたいのかという視点がない(意図的にその話は現段階でしていない?)からなのか。

横国の設計の授業で思うのは、プロセスはどういうルートでもいいからあるポイントをはずすべきではないという感じがする。かなりあいまいな感想だけど。たとえば、それは社会性というキーワードだったり、山本さんの言うリアリティの問題がポイントなのかもしれない。Y-GSAがスタジオ制でスタジオごとにあるキーワードとして掲げているのもそれだと思う。
一方、藤村さんは方法論を限定して、その方法論でどういう問題をも解くといっているように思う。問題設定よりプロセスを鍛える。

自分も含めて周りを見てみると、問題意識とかどういう理想像を抱いて設計するかということと、どういう方法論や手法(表現手法も含めて)を用いて設計をするかということのバランスがまだまだ取れていないというか、全然水準として低いのだろうなと思う。
そして、そのどちらに対しても議論の行われる機会は極めて少ない、というギロンについてのギロンは横において置くとしても…。
プロセスも目的もどっちも大事に決まってんじゃない、といわれればそれまでなのだけど、急に自分の中で2人の言っていることがそういう問題系なのかなと感じた。あれ?結局自分の中でまとまってんのか?

という、なんか意味の分からない自問自答の文章になった。

ということで、なんとなく自分の中での今後しばらくの問題系が、「方法論とその先の目的について」ということになりそうな気がする。

これは、院試とは全然関係ないコトのようだけど、やっぱりそう考えると、Y-GSAのスタジオ制は目的設定の話とプロセスの話の両方を考える場所としていい環境な気がしてならない。という自分のモチベーションにつながっていたりする。