2009年2月7日土曜日

森山大道講演会@YNU

今日は大学で写真家・森山大道さんの講演会を聞いてきた。
以下、印象に残ったところを列記。
・何でもとりあえず撮っちゃう
・画角大きめでざっくりとっちゃう
・トリミングをためらわない
・ちゃんと撮れるカメラなら機種とか拘らない
・自分の写真を誰かが使ってても腹は立たない
・政治的な物言いはしないし、そういう写真にもしたくない
・ぼちぼち東京を撮りはじめた

この前の磯崎さん同様、結構なご高齢だけど、そうは全然見えないパワフルさがあった。
まとまって写真を見たことはなかったけど、これを機に少し探してみてみようと思う。

その他まとまっていないながら、考えたこと。
・主観的な見方や考え方の膨大な積み重ねが、あるとき客観性を得るのかもしれない。
・それは、客観性というより社会性に近いかもしれない。
・写真はその時、その場所にいなければ撮れない。このことは写真にフィジカルな情報を付加している。
・メタな視線は圧倒的な情報の上に成り立つが、その情報はベタでフィジカルな行為によって集積される。
・メタな分析は最終的にベタでフィジカルな行為のレベルに還元されるべき。

てな感じで、講演会に絡んで考えたメモ的テキストを列記。

あと、亡念のザムドが全部終わったけど、良かった。
「天空のナウシカセブン」などと揶揄されていたけど、ナウシカについては意図的に意識している作りだっだし、エウレカセブンは同じ制作会社の同じ路線の先行作だから意識せざるを得なかったと思う。
自分でもエウレカ越えできるかなーとか思いながら見ていたし。
いわゆるセカイ系の物語は「僕と彼女とセカイ」の話なのだけど、「僕と彼女と~と○○と…と(以下略)とがセカイの一部」というスタンスにザムドはなっていたのかな、とか今のとこ思う。
この辺がエウレカより腑に落ちた気がする要因だと思う。

何かを語って世界を語った気になってはいけなくて、自分とその周囲は常に世界の一部でしかない。
そんなの、めちゃくちゃ当たり前だけど、つい自分の周りが世界だと思ってしまいがち。
小さなコミュニティが乱立して、そこに共同体内での幻想が生まれていく様子は、「私たちとセカイ」というある種のセカイ系の話でしかなくて、何か違うなーと思う。
常に私たちは世界の一部でしかない。
メタな話をしても、その話はやっぱさらなる上部構造の一部でしかない。

全然まとまってないけど、なんとなく夏からこっち考えてきたことが収束しつつある気がする。

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